昼下がりモンキー

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『プール』 理解することをあきらめる幸せ

かもめ食堂』はマジックリアリズムでした。映画で丁寧に積み上げていく現実世界。少しおかしい人たちとの日常が、最後の魔法によって、日常のすべては奇跡の産物だと気づかせる構造をもっていたように思えます。それは、フィンランドという土地の魅せる魔法なのでしょうか。妖精や神話の息づく北欧の魔法なのでしょうか。フィンランドの土地柄と、役者と、魅せる個性と、この世界における価値観とのズレ、それが最後の奇跡のスパイスによって合致するように作られた作品です。それによって、我々がまだ気づいていない、そして進んだ先にあるかもしれない「幸せ」の形を提示してくれました。

 

かもめ食堂

かもめ食堂

  • 発売日: 2016/06/29
  • メディア: Prime Video
 

 

 

進む先、と言いましたが、もしかしたらそれは大昔の我々の感じていた種類の幸せなのかもしれません。いずれにせよ、現在では欠落してしまった何かです。

 現代の我々では理解できません。監督もなんとなくで作っていそうなこの作品ですが、単純な「スローライフ」とかがテーマではないと思われます。その先を、監督でも見たくて描いているのではないでしょうか。見ている側は、それはもう、未知のものを見せられてとまどいますが、だんだん脳内の時間がゆっくりになっていきます。慣れるまでは時間がかかります。

我々の時代の進んだ先や、もしくは大昔にこのような生活をしていた人が「かもめ食堂」を見たら、当たり前すぎて何も感じないのかもしれません。それはなんと豊かなことでしょう。私たちが失ってしまった「豊かさ」です。それを具体的に言う言葉がないのは、ぼくの語彙力がないのと同時に、現在の文明ではまだ開発されていないからです。それを言うなら、「スローライフ」「ロハス」あたりが近いのかもしれません。でも、そこには明らかに「イケてる感」が出てしまう。その感覚はノイズであり、いらないのです。「原始性」に近いのかもしれませんが、それは曖昧過ぎる。言語の外の概念を出してくることは、映画として本当に素晴らしいことだと思います。

かもめ食堂』は、忙しい時は見れません。心に余裕のないときも見れません。つまり、現代人ではある一定数の人が見ることができません。とても制限の多い映画です。無理に見せたら苦痛を伴ってしまいます。心に余裕がないのに、見て癒された気持ちになる人は、きっと、それを感受するだけの余裕がある、と言えると思います。ここで言っているのは、「本当の」余裕がない人たちです。何かに苦しめられている、何かに追われている、そしてゆったりとした平和な時間を過ごした経験のない人たち。かつてあった豊かな思い出をもつ人は見ることができます。さらに、その「思い出」に価値を見出せる人はこの映画を好きになります。

 神話学者のジョーゼフキャンベルはこんなことを語りました。原文は忘れましたが、以下のようなことです。

「幼いころ、未知の冒険をする私たちは英雄だった。そのときの、満たされた思い出があるから、大人になってつらい世界を生きられるのだ。」

 幼いころに積んだ心のエネルギーを、少しずつ燃やして浪費しながら、我々は大人を生きているのかもしれません。そのころの感覚にアクセスする映画が「かもめ食堂」などの作品なのかもしれません。

 

 さて、本題です。『プール』を観ました。場所はタイランド。タイもゆっくりしているから、作風に合いますね。『かもめ食堂』とまったく同じレベルのゆったりさと雰囲気をもっているにも関わらず、とても現実的な話に落とし込まれていました。最後にファンタジー要素で落とすかと思いきや、落ち切らず、現在のつながりをもったまま終わりました。これは何なのでしょう。

 

プール [DVD]

プール [DVD]

  • 発売日: 2010/04/09
  • メディア: DVD
 

 

 

 

 

テーマはそれぞれ「親子のつながり」「個人」「幸せ」「愛」など。やはり、このなかでも「親子のつながり」でしょうか。ここがテーマとしてある限り、地に足がついてしまうのかもしれません。この、どちらかといえば、これは逃げられない絡めとる種類のテーマだからかもしれません。

そのせいで、『プール』において、小林聡美さんは自由である反面、身勝手である印象を受けてしまう。『かもめ食堂』では子供がいる設定が出てきてないので、身勝手さは感じられず、ノーストレスで見られました。『プール』では、親が子供を祖母に預けて、タイで好きに暮らす主人公の姿。これは日本的な価値観からすると、まだ、慣れないところがあるからかもしれません。そこにゲンナリしてしまう視聴者もいるでしょう。一緒にいたかった旨を娘に告げられた母:小林聡美の答えは、「私は楽しくやっている。あなたは大丈夫。」というもの。親子はまったくかみ合いません。どちらかといえば、観客としては、娘の気持ちに乗ってしまうところ。このかみ合わなさを、クライマックスにもってくるのはなんなのでしょう。

 このかみ合わなさは、既視感がありました。身近にいませんか。まったく噛み合わない人。こちらが、必死になればなるほど、まったくその気持ちを理解してくれない人。その人に悪意はありません。ただ単に、かみ合わないのです。価値観があまりに違いすぎて。

 この作品では、それが母という絶望。決して悪い人ではなく、むしろ良い人。知らない孤児をそのまま育ててしまうような人。でも、その時好きなことをするのに全力で、決して自分のことを一番に見てくれない。

 小林聡美は主義を主張したりしません。ダイアローグもテーゼもなく、ディベートは生じません。娘の独白に対して、「私はこういう生き方をする」というだけ。議論のないところに、変化はありません。コミュニケートできないということであるから。

 おそらく、娘は理解しあえないということを理解したのでしょう。寂しかった記憶や、自分よりほかの子を育てていたことに対する、親子なら抱えるであろう普遍的な嫉妬に対して、感情をぶつけても、その人は私の苦しみは理解できないということ。しかし良い人であるから憎むこともできない。よって、彼女は諦めたのでしょう。

ですが、逆説的にそこで救われたようにも見えました。

理解してもらうことを「諦める」ことで、幸せになるのです。我執とでもいいましょうか。欲望が消えることによって、自分勝手に見える母と和解ができたのです。悪く言えば、娘が折れたのです。

 まさか、「わかりあえないことをあきらめる幸せ」なんてものを映画で見せられるとは。

まさにプールでしょう。

小林聡美さんの行動原理はシンプル。透き通っていて、綺麗で、広い。そして、冷たいんです。プールは寄ってきたひとを平等に受け止め、独自の浮遊感と幸せを与えてくれます。ですが、ずっとその中ににいることはできません。ずっと幸せにはしてくれません。そして、それはゲストハウスでもあるのかもしれません。

また、象徴している歌にもありました。

 

『君の好きな花』

 

薄紅の

つんでみようか

やめようか

 

風に吹かれて

飛んできた

遠い町まで

飛んできた

 

君の好きな歌

歌おうか

まあるい笑顔が

見たいから

ぼくの好きな歌

君の歌

遠い町まで

届くかな

 

(略)

愛しているよ

愛しているよ

愛しているよ

愛しているよ

 

 

 タイのゲストハウスにいる面々は、本来の居場所から離れてきています。

皆、タイにとっては外国人で、ビーくんにいたっては母に捨てられた(?)。元の居場所から皆、タイのチェンマイに「飛んできた」のです。そして、遠くで歌うのです。届くかな、と思いながら。愛しているんです。母なりに。

 わかりあえない母であっても、愛していることは伝わったのではないでしょうか。そして、言葉で割り切れるものではないことがあります。ラストの、もたいまさこさんの魂もそうでしょう。大事なのは距離ではないのです。なぜなら、魂は届くのです。これは、愛についての物語なのです。分かり合えないけれど、実在を感じることができる。ですが、愛なんて形のないものではないでしょうか。それを、歌にのせて伝えられるだけでも、それはなかなか幸せなことなんではないでしょうか。そのように、子供が大人になるという現実を描いたものが『プール』かと思われます。賛否両論ありそう。

ただ、現在の価値観や、考え方では到達できないところにあるのかもしれません。先の次元のものか、大昔の次元のものであるようです。

 

 

 

 次は『めがね』だ。

 

 

めがね

めがね

  • 発売日: 2016/06/29
  • メディア: Prime Video
 

 

スパイダーマン ファーフロムホームの構造 肉体への回帰 ネタバレ

スパイダーマンは親愛なる隣人である。

ニューヨークのヒーローであり、手の届くところにいる感じが何よりの魅力だ。それはいわば、初代ポケモンのような身近さだ。いるんじゃないか、と思わせるぐらいの親近感と、憧れ。

さて、今回のテーマはフェイクだ。

科学というものは基本的にまやかしである。技術を高めていっても人間性が向上するわけではない。むしろ弱くなる。アイアンマンで描かれてきたように、外見の強さは内面を弱くする。中身が強くなるためには、経験なのだ。様々な試練で、折れないという経験だけが人の中身を育てる。

そういう意味で、科学とは技術が確立されればお手軽に手に入る力であり、本質を伴わない見せかけなのだ。

スパイダーマンは敵が科学者だ。弱い心を持った科学者、もしくはエンジニアが科学を悪用する。それはピーターパーカーの反面である。科学者であるピーターパーカーのあったかもしれない未来である。ミステリオもそうなのだ。本質的な強さをもたずに、弱い心のまま欲望にのまれた敵なのだ。

ゆえに、敵は小物となる。一作目のヴァルチャーも、二作目のミステリオも本当に小物だが、わざとだろう。見事だ。

そこには、サノスのような力強い信念はない。目の前にある富、名声などを求めているだけだ。サノスには経験に裏打ちされた心の強さがあるが、スパイダーマンの敵にはそれがない。なぜかといえば、見せかけだけで中身が強くなっていないからだ。考えてみれば、敵は、心の成長しなかったアイアンマンことトニースタークとも言える。トニーも、元は小物だった、第一作で心を取り戻すまでは。

だが、小物ゆえに強力だ。自分が非力であることを知っているので、きめ細やかな戦略でくる。毎回チームを組んで戦う。とても前向きに、一丸となって戦う。とても楽しそうだ。クライム映画にあるような高揚感は、アントマンのチームに近い。

フェイクだ。

フェイクにフェイクを重ねる。観客も何が何だかわからなくなる。幻覚の表現なんて圧巻だ。観客がスパイダーマンと同化し、ダメージを受けてしまうほどの映像世界。その中で、信じていたものが薄っぺらくなる。現実に立脚している我々の足場さえも、結局のところただの認識の問題であり、不安定な足場だと知る。幻影の中で何も見えなくなる。自分しか見えなくなる。そんなとき、人は何を信じて暗闇から抜け出すのか。

その先に見えてくる、監督の考えるフェイクに打ち勝つ強さとは何か。

それは別に愛とかではない。確立した自己でもない。感覚だ。日本語ではムズムズと言われていたが、スパイダーセンス、つまり第六感だ。感覚とは今までの経験から生み出されるものだ。そして修行して育てるものだ。

これは肉体を信じろということだ。何かしら、嫌な予感は体で感じることができるのだ。スパイダーマンに限らず、人間だってある。この道をいったらなんかまずそう、というのはある。それは建物の雰囲気や、街灯の明るさ、人の表情など。それらは言語化したら気にしすぎと呼ばれるレベルのものであっても、体は微細に感じ取れる。

情報にも、我々の身体性を高めて向かい合えばいいのだろう。つまり、自分の感覚を総動員させて真実を見つけなさい、ということだ。

このフェイクに満ち溢れた世界で信じることができるのは、友情でも愛でも、信念でもない。それらは、陶酔させて本来の感覚を見失わせるものだからだ。もっとシンプルに、自然体で、感覚を信じてこの世界と戦えというメッセージなのかもしれない。

だから、劇中のセリフにあった通り、本質的にスパイダーマンはアイアンマンではない。科学をさらなる科学でぶっ潰すアイアンマンではない。科学をベースに、最終的には肉体に野生に回帰するハイブリッドがスパイダーマンなのだ。

最新鋭のドローンを肉体でぶっ壊していくというばかな感じもとてもよい。特に仲間やmjまで、ドローンを鈍器でぶっこわす。しかも中世の武器でだ。

とてもわかりやすくデジタルからの肉体回帰が描かれている。実際に動いてみろ、と。ネッドがゲームをやめて隣を見て恋をするようにだ。デジタルからの離脱。科学に頼りすぎるなよ、肉体を信じろというメッセージが何度も描かれている。普遍的かつ、古典的な映画となっている。スタークから受け継いだネットワークシステムなんて使えなくていいのだ。トニーから受け継いだメタルのスーツもいらない。あまりに、アイアンマン的だったギラギラしたスーツは終わり、自分らしく作り直したスーツはラバー生地のスパイダーマンそのもの。その柔らかさこそがスパイダーマン本来のものだ。それを取り戻せた。そして、一作目と違い、スーツの機能もシンプルに、ガイダンスはなくなり、自分の肉体を強化するものに変わる。

 

スパイダーマンとは、アイアンマンにキャップをプラスしていると考えても良いだろう。アイアンスーツに、超人の肉体だ。

構造で見ると、アベンジャーズの後継にまさに適している。

このままいくと、次作も小物であるだろう。そして、ピーターパーカーのみがもつムズムズとした感覚を、一般人も持つことで幻想を打ち破って終わるのではないだろうか?

なんて想像もしてみる。

フェイクに打ち勝つには、経験だ。経験のない人間は未成熟といえる。初期のピーターパーカーでは、超人的センスを持ってしても勝てなかっただろう。経験を積み、心を鍛え、悪を知り、大人になったからこそフェイクを越えることができた。

今度は、スパイダーマンだけではなく、ny市民まで巻き込んだ成長の物語になったら。我々まで心を鍛える映画になれば、一つのアンサーになりうるのではないか。

三作目が楽しみだ。

 

アベンジャーズ・エンドゲーム キャプテンアメリカとアイアンマンの対比の構造

アイアンマンことトニースタークは基本的にはエゴイスティックだ。

キャプテンアメリカことスティーブロジャースは、基本的には自己犠牲の人間だ。

その構造が、アベンジャーズエンドゲームにおいて逆転することに感動がある。まったく違う信念を持つ者同士が、最初は反発しつつも、歩み寄ることに対して、ぼくらはなんでこれほど感動してしまうのだろうか。それは、現実世界では起こることの少ない奇跡だからなのかもしれない。現実世界では、これほど劇的ではないかもしれないが、小規模には現実世界で起きている。歩み寄って人は成長していくからだ。そういう経験は、ちょっとずつ誰にもある。なければ、永遠に子供のままだ。

 この構造は例えば、トイストーリー。まじめで現実主義なリーダーであるウッディと、破天荒で夢見がちなバズの対比の物語だった。新参者の理想主義のバズに人は寄っていく。二人は反発しあう。しかし、物語が進むにつれ二人は協力する。その過程で歩み寄り、二人はそれぞれに成長を遂げる。ウッディは、子供っぽい夢見る心を取り戻し、柔らかくなる。バズは現実を受け止めて、自分の役割を知って大人になる。枯れた大人が心を取り戻し、幼い子供が責任を得るようになる話だ。実によくできている。

 このように、対立軸から学んで、時には妥協し、成長を遂げること、これがハリウッドが繰り返し訴えていることだ。それはもちろん、異文化理解・LGBT平等などの理想が含まれている。他者を尊重して歩み寄ることでしか人は成熟しないというメッセージだ。

 名作と呼ばれる物語には、対立→歩み寄りが含まれている。ここで私が思い出すのは、レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」だ。盲目の人に対する差別意識があった男が、その男と共同作業をするうちに、感覚で分かり合うという奇跡だ。ここには頭や言葉による理解ではないから、ぐっとくるものがある。

 スラムダンクでは、桜木と流川が対立から歩み寄りを見せる。あの二人はどちらもアイアンマンであり、エゴイスティックなところが大きい。その二人が、共通の敵に向かうとき、最後の最後で協力をする。数十巻にわたって積み上げてきて、最後の最後に自己犠牲をする。集団への貢献をする。そこで、大人になる。その協力の瞬間に言葉はいらないのだ。前述のとおり、その歩み寄りは言葉で、頭で理解してやるものではない。感覚で二人がシンクロするのだ。それこそが、奇跡なのだ。

 アイアンマンとキャップの話に戻そう。

 お互いに彼らは真逆であるからこそひかれあってきた。二人はアメリカを象徴している。国旗の赤と青を二人で分けている。

キャップ

①昔のアメリカ・青:理想主義。1970年ごろまでのアメリカは政治的にも世界のリーダー的存在。利益よりも思想を重視。自己犠牲。清い。メンタルが強い。内面が強い。(鍛えられているから)

②肉体(内部)が武器。

③何ももたないが、それゆえに権威がある。しかし、理想が強く、なびかないので政府としては厄介。(西郷隆盛タイプ)

 

アイアンマン

①現在のアメリカ・赤:利益優先。特にアメリカの利益優先。思想よりも、利益を重視。自己優先。汚いところもある。メンタルが弱い。(鍛えられていないから)

②外面(外殻)が武器。

③金・権力をもつが、しかし人の心は得られない。理想よりも現実をとるため、政府としては協力しやすい。

 

 この見事な対比。きっとアメリカという国自体が、この両者の両輪だという意味も込められているのだろう。どちらかが強すぎても、成り立たない。バランスが大事だ。だから、あの両者は戦っても互角なのだ。しかし、この両極端があるからこそ、あの国は強いのかもしれない。

 さて、どちらも頑固であるこの両者がシビルウォーで決定的に対立したのち、エンドゲームで見事に歩み寄る。それだけではない、なんと逆転をして終わる。

 アイアンマンは、戦わないと言い続け、家族を優先すると言ったにもかかわらず、皆のための自己犠牲の結果、死ぬ。エゴ→自己犠牲

 キャプテンアメリカは、常に自己犠牲の精神で敵と立ち向かうが、最後は生き残り、今まで他人のためにしか生きていなかった自分の人生を、やっと全うすることができる。自己犠牲→エゴ

 ここに両者の大きな成長がみられる。歩み寄りを通り越して、逆転したのだ。これは、きっと二人が相互に良い影響をもたらしあったから起きた奇跡である。お互いの言葉による和解はあるが、それは簡単なものだ。大事なのはそこではない。お互いが感化され、無言のうちに、体が動いてしまう。実行してしまう。それが、人生における奇跡なのではないだろうか。

だから、我々はこういう物語を見たくなるのだ。こういう奇跡を見たくなるのだ。トランプ以降分断したアメリカが、また統合するための映画なのかもしれない。

 

 

 

moto

スリランカ旅行記2  聖地カタラガマ

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旅に目的地は必要なのだろうか。

難しい問題だ。この問いに対するぼくの答えは、半分イエスで半分ノーだ。

なぜなら、目的がないと旅のモチベーションが上がらず、そもそも旅が始まらない。しかし、目的地は大概の場合、期待はずれで終わるからだ。他の人はどうなんだろう。もしかしたら、ぼくの調査不足のせいというだけなのかもしれない。

 


予定は二つあった。

ジャングルで野生動物を見ること、もう一つは聖地カタラガマのお祭りを見ることだった。その二つはスリランカで外せないものとなっていた。

しかしながら、結果から言って、その二つはどちらも、それほど面白いものではなかった。

ジャングルは乾燥していて、動物が水飲みに現れることはなかった。サファリに誘ってきたガイドは「今日の夜は雨が降るだろう。明日の朝はレオパルドが出るはずだ」と言って俺を雇えと自信たっぷりに話しかけてきた。実際のところは、雨雲が降る気配も、雨がふることもなく、乾燥したままの朝を迎えることになった。ガイドのおじさんは、きっと毎日同じことを言っているのだろう。

聖地カタラガマはスリランカにおけるヒンズー教随一の聖地だ。人で溢れて熱気を感じたが、そこはなぜか企業に管理された野外フェスに近いものを感じた。土俗的なものの狂気から離れてしまっているように思えた。とはいっても、普通に見れば、かなり異様だった。人は泥だらけの川で沐浴をし、泳ぎ回り、家族づれはキャンプを始め、おばあさんたちは焚き火の上でチャイを作っていた。妙な格好をした人々は太鼓を持ち出し突発的に練り歩き、象は首元を鎖で縛られたまま槍を向けられて佇んでいた。まあ、異様だった。

でも、なぜか、予想外なことは起こらなそうだと思った。象が象使いを踏みつけでもしない限り、だ。

ただ、その予定調和を否定する言葉をぼくが言ってはいけない。もちろん、このお祭りは同じ文化のものたちに向けた内向きのものなのだ。ヒンズー教徒の、ヒンズー教徒によるヒンズー教徒のためのおまつり。対象にぼくは入っていない。この祭りに付随する意味も、神聖さも、ぼくは知らない。

 でも唯一、楽しかったこともある。トゥクトゥクで向かう時だった。前のトラックの荷台に6人ぐらいの女性が乗っていて、ぼくと同様カタラガマに向かう人々だった。彼女たちは走る車の荷台から、いかにもインド的な陽気な歌を歌っていた。ぼくとトゥクトゥク乗りのお兄さんは、そのトラックの後ろや横を走りながら、彼女たちと一緒に手拍子をとって歌った。ぼくはその知らない歌を適当に合わせて歌った。ジプシーのキャラバンみたいだなとか思いながら、そのときだけは部外者でなくなれた気がして楽しかった。

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スリランカについて2日、その二つが心の中で空振りをし、早くも旅行の目的がなくなった。5日間が余った。

やることをなくしたぼくは、そのまま北に向かった。山の方に向かった。空白を埋めに行くのだ。

どこだっただろうか、もう忘れてしまった停車場だ。その山の麓の停車場で何時間かバスを待った。トゥクトゥク乗りが「乗れ、どこでも連れて行ってやる」と誘ってくる。もちろんバスの方が安いので、断る。が、暇なのでコーラをおごる。お礼にタバコをくれた。中にマリファナが入っていて断る。バカじゃないのか? そういって笑う。人が集まる。どこから来たんだ? どこに行くんだ? 俺のトゥクトゥク運転していいぞ、彼女はいるのか?  おまえはいいやつだ、おれんちにこい、とか。

東南アジアには、客がつかまらず暇を持て余したトゥクトゥク乗りがすぐに集まってくる。彼らも空白を抱えているのだ。

どこにいても、わらわらと集まってくる。お互いに大したことない英語で暇をつぶす。そんな英語を話したところでどんな語学的成長も見込めない、そんな英語で意思疎通をする。正確にお互いの言っていることを理解しあう気はない。お互いに。

そんなスカスカした意思疎通をしているところで、やっと心の中にストンと何かが落ちた。こういうときが一番楽しい。サファリよりも、祭りよりも、楽しい。観光地よりも、建築物よりも、歴史よりも、写真よりも。

追い抜いたトラックだったり、バスの中だったり、停留所だったり、こういう空白の中が一番楽しい。移動することこそが、楽しい。

他愛のない関係を作って、そしてすぐに断ち切って、山に向かう。次の街はella というところだ。

 

 

スリランカ旅行記 1 simのない世界

世界の距離は縮まっているという。

ぼくは航空機の発達について語ることはできない。おおまかな知識しかない。それは多くの人が記憶から引き出せる近代史というものとほぼ同じものだろう。ライト兄弟がいて、リンドバーグがいて、第二次世界大戦があって、プロペラ機からジャンボジェットの時代に。いくつかの革新があって、そのたびに文字通り飛躍的に飛行機の速度は上がり、快適になっているのだろう。確実に世界の距離は近くなっている。

ぼくの短い人生では、もちろんそんな変化を見ることはできていない。

なにせ、まだ飛行機に積極的に乗り始めて10年ぐらいだ。よくある言説であるが、人類の歴史に比べてわれわれの人生は一瞬である。それと同様に航空の歴史に対してでさえぼくの人生は一瞬でしかない。航空の歴史なんてたった100年程度のものなのに。

 

ただ、個人でも、その変化を理解できることがある。それを体験として実感することはある。これは小さなものに見えるかもしれない。でも、本当にラディカルな変化に感じた。

それは、世界中どこにいってもwifiが通じる世界になっていることだ。世界中どのホテルにいっても電波が通じてしまう。実感としては、3年だ。2010-2013年の間に世界中のどのホテルにも、wifiが置かれるようになったのではないだろうか。それはどんな安宿でも。あくまで実感の話だ。そして、日本でもiPhoneやアンドロイドが普及した。もちろん自分も買い換えた時期が重なる。

たった3年だった。その変化の速さに、愕然とした。

2007-2009にヨーロッパやアジアを周った時は、日本に連絡するのに電話を使ったり、インターネットカフェを探した。その面倒さを抱えるたびに日本が遠くなった気がした。

2010年以降はiPhoneを海外に持っていった。旅は劇的に変わった。日本にいつでも連絡が取れた。現地人とFacebookですぐに友達になれた。快適だ。安心が得られる。予定調和が増える。不確実な要素は消える。驚きも減る。それは、もしかしたら歳をとって心が鈍くなったことも関係しているのかもしれない、とも感じながら。世界は間違いなく近くなった。日本は遠くにならなくなった。

 

今回の旅の話をしよう。スリランカに行った。

行くと決めてから、人にセイロンティーの産地であることや、仏教国であるとかを教えてもらった。なぜスリランカか、と訊かれると確たる理由がない。それでも無理に言うなら、スリランカがインドの南にあるからだ。インドに行く前に、一旦スリランカに行きたいと思った。人にはなかなか理解してもらえないが、自分の中では筋の通ったものであって、うまく説明できないこと。そういうものはよくある。

スリランカの首都にあるコロンボの空港に降りた両替した後、40歳ぐらいのスリランカ人の男に声をかけられた。

「市街地までタクシーで行くから乗っていかないか」

車内では、電話番号を交換した。この後の目的地を告げると、その地に住む友達を紹介してくれると言う。彼が一番良いツアーを手配してくれるし、いいホテルも紹介してくれるだろう。ありがたい申し出だった。

スリランカのsimを入れて旅をすれば、電話が使える。こちらもいつでも連絡できる。そうすれば君の旅は快適だし不安な要素はなくなる。いい旅になる。君が選ぶといい」

スリランカ人は良い人ばかりだった。騙しにかかる気配はまったくなかった。でも、結果としてsimは入れなかったし、目的地にいる彼の友人に連絡もしなかった。

なぜだろうか。

おそらくは、ぼくが、不安な要素、不確定な要素を求めて、スリランカに行っているからなのだろう。そのせいで抱える。困難はある。間違って11時過ぎにゴールという街にホテルも予約せずに着き、全部閉まっているせいで、トゥクトゥクのおじさんに無理に電話させ、ホテルのシャッターを開けさせ、不機嫌な従業員に謝って泊めさせてもらうこともあった。

ずいぶん迷惑なことをしていると思う。人の好意も断ることもある。でも、simを入れて、連絡がいつでもできるようになってしまったときの予定調和の世界にいたら、楽しみも減ってしまう気がする。たぶん、確実に減るだろう。

きっと大昔に比べて多くの旅の楽しみは失われている。そんな安全な旅しか知らないのに、ほとんど意味のない抵抗をしている。

ほとんど。

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カンボジアシガレット小話

 外国に行くときはタバコをもっていくと便利だ。
 それが簡単なお金の代わりになる。お礼に使えるし、お近づきの印に使える。しかし通貨とは似て非なるもの。もっと純粋に「好意」をそのまま形にしたようなものに近いのかもしれない。そしてお金よりもずっとずっと気楽なものだ。
 あまりに気楽なものだろうか、どこを旅行してもよくシガレットを持っていないか尋ねられる。「尋ねられた」という言い方をしたが、これは幾分ていねいな言い方になっている。少し辟易した気持ちを乗せれば「せびられた」と言えるし、悪意を乗せれば「乞食」と言える。にしてもヨーロッパは少し不思議で、多少しっかりした身なりの人からもよく「尋ねられた」。決して金に不自由しているようには思えないような人達が、だ。
「どこから来た?」「何を勉強しているんだ?」「タバコを持っていないか?」彼らは悠々と文脈を飛び越えてくる。
更には直截的に、2ユーロぐらいの小銭を「尋ねられた」こともある。もしかしたら、それは文化なのかもしれない。ある特定の地域のあるコミュニティによる文化。洗面台に腕時計が落ちていたら拾ってしまうことや、お釣りを1ユーロ少なくすることと同じようなものかもしれない。でも、彼らは広範に出没した。ドイツ、オーストリア、デンマークチェコ、フランス、イタリア。彼らは、実に色んな所に出没する。特に駅の周辺で。でも、悪気はない。
 これはコミュニケーションの一環なのかもしれない。隣の席の女の子と話したいとき、教科書を見せてもらってキッカケを作るようなものかもしれない。そう考えると、よい身なりの人々のやわらかな孤独が感じられる気がした。それを指摘したら壊れてしまうような脆いもの。
 ぼくは知らず知らずのうちに、彼らと孤独を共有すべく(?)、タバコを吸うようになっていた。気づけば吸っていた。旅のどの時点でぼくのニコチン摂取が始まったのか、そんなことはわからない。ただ、動機は明確だ。ツールのために始まった。
 どこでも吸った。
 それは、ヨーロッパ人がどこでも吸うからだった。
 2007年.あの頃は、分煙活動が広まりつつあったけれども、まだ市民権は得ていない。そんな時期だった。何にだってそういう時期はある。ヨーロッパでもイタリアに行って初めてレストランの外で吸っている人を見た。彼らを見ると彼らの背負う孤独がより一層際立ったが、日本の喫煙室ほどではない。それぐらいの孤独だ。
 いろいろなところで吸った。王宮の庭で吸って、駅のプラットフォームで吸って、世界遺産で吸った。フィレンツェのドゥオモの頂上で吸ってポイ捨てしたときは、怒られたので拾った。日本人の観光客だった。大学生の3人組だっただろうか、世界遺産でこんなことをするなんて信じられないという顔で見ていた。自分は酷く文化に染まりやすいことに気づいた。
 ヨーロッパから離れても、旅するときは、日本のタバコを持って行った。アジア圏はもっともっと直截的にタバコを求めてきた。つまり順番が違うのだ。①金をくれ、②タバコをくれ、③こんにちは、という順番で会話が進む。①②③の変動はあるが、そこに大きな差はない。向こうから話しかけてくるときは大抵そんなものだった。子供にはお菓子やピスタチオなどの豆類をあげた。
 誤解のないように言っておきたいが、これらは「向こうから話しかけてきた時」のことだ。「こちらから声をかけた時」はもっと丁寧で、思いやりに満ち溢れた対応が多い。何かをくれるときだってある。タバコくれなんて、絶対に。いや、あまり言ってこない。そのうち、声かけてくる人々をあしらう意味でも、なかなかよいツールであることにも気づくようになった。
 カンボジアアンコールワットの古代遺跡の眺めの良い一室に、勝手に巣食っているおじいさんがいた。彼とはタバコの交換をした。
 巣食っているといっても、定住しているわけではないようだ。一室には生活感が無かった。ただ、荷物が多少詰められていた。ごくわずかな食べ物、水、タバコ。暇だから昼間は観光にやってくる人々と話して、時には勝手にガイドして金をせびって生きている人のようだった。
 自分から観光客に話しかけに行くことはあっても、話しかけられて一室まで付いてくる人間はあまり知らないらしく、嬉しそうだった。交換したカンボジアのタバコの味は忘れた。そもそもカンボジアにタバコ会社があるのかも知らない。
 彼はその広い遺産でも夕陽の眺めのよい場所に連れて行ってくれた。特に話すこともなく夕陽を見ていた。そもそも言葉が通じないのだ。何も話さなかっただろう。われわれは、熱帯のジャングルの中、熱された石の上で、遅れてやってきた夕暮れを眺めていたのだ。うだるような熱風が、湿度を孕んだ心地よい風に変わっていった。ここで長い日中を過ごした誰もが、疲れていた。
 下で安っぽい民芸品を売る子供だけが、石の上にいる自分を見つけて騒いでいた。その籠には何が入っていたか。ミサンガだったか、竹で作られた腕輪か、竹を切っただけの笛か。彼だけが、おそらく柔らかい連帯の中にいなかった。彼だけが、つかれていなかった。
 その他はみな、均等に疲れていた。土も、ジャングルも、この寺院さえも、ちょっとでも気を抜いたりしたら瓦解してしまいそうなほどに、疲れきっていた。
 こういった柔らかな繋がりが、言葉を介さなくてもできるものがタバコだ。その連帯はアルコールより弱く、言葉よりも強い。きっとそこで交換するものは純粋な「好意」だからだ。多少命を縮めようとも、好意がなければ生きている意味なんて無い。
 でも、日本では吸わない。いろいろな理由はある。ただ好意すらめんどくさい社会だってあるのだ。

イラン旅行記 6 - マリファナ

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 イランは治安が良かった。

 人も良かった。

 道行く人が声をかけてきて、たまに家に泊めてくれたり。旅行者を歓迎することに喜びを感じるイスラム圏の思考回路なのかもしれない。それがウェットな部分を大いに含んでいて、独りで旅行するのが好きなめんどくさい種類の人間にとっては胃もたれすることもある。

 考えてみれば、アジア圏はウェットな傾向がある。

 一昔前の日本と同じだ。同調性に喜びを感じるもの。同じ飯を食べて、同じものを見て楽しむ事こそが親愛の印となる思考方法。

 これを僕は個人的に『俺の酒が飲めないのか』文化と呼ぶことにしている。勿論、そんな言葉はない。ここでそう呼ぶのは、便宜上。あくまで便宜上。

 飯を奢ってくれて、泊めてくれて、人格的にも尊敬し始めた人から受ける「俺の酒が飲めないのか?」

 これは断れないですよね。

 断れないのはそれは弱さなのだろうか? まあ、弱さと呼ばれるものの一種類であることは間違いないと思う。その場の親和的な関係性を壊すことを恐れるための逃げではあるのだろう。

 まあ、大抵の場合はオッケーとする。危険は避けるべきなのだ。たとえプライドとか色んなモノが地に落ちようが。そんなものは元から大したものじゃない。

 ただ「俺のマリファナが吸えないのか?」

 になったときは困った。

 まさか、厳格なイランでこれがあるとは思わなかった。

 日本における「イラン人」のイメージは上野や新宿で覚せい剤とかを売りつけるイメージが昨今のニュースのせいであるのは事実。が、まあ、それもそれでほんの一部の話なので、善良な大多数の在日イラン人の方たちにとっては迷惑なイメージであると思います。

 そんな典型的な日本人のイメージとは程遠く、イランはアルコール禁止で、賭博禁止で、売春禁止で、女性は公衆の中でスカーフ(ヘジャーブと呼ばれるもの)から髪の毛が出てしまったら取り締まられる、などと禁止だらけの国だったりする。この原理主義的な禁欲主義を、表面的には貫いている。あくまで、公的な話なので、実態はどこまで厳格なのかは謎ですが、それでも外国人がアルコールを持ち込んだりしたら刑務所行きだとかは旅行中よく聞きました。実際に旅したところ、勿論危ないところには行ってませんが、街中のどこを見てもアルコールも酔っぱらいもいない。穏やかにタバコ吸ってお茶を飲んでる。おお、優雅だ。

 世の悪徳を排除した世界は天国か? 

 まさか。

 

 その日の「おまえもマリファナ吸えよ。」

 出会ってすぐにも関わらず、飯を何度も奢ってくれた奴。寝台特急に乗らないとな、と言ったら夜中1時にわざわざ車で送ってくれたこと。

 そういうのを含めると、本当にこういう誘いは辛い。運転をしながら右手を差し伸べる男は既に目がすわっていた。吸ったふりをして、へらへら笑って返した。

 寝台列車に乗る前に、甘ったるい匂いが強かったのでトイレで服を水に濡らして洗っているとき、突然、虚しい気持ちになった。何をしているんだか。

 こういうのがあるから、アジア的なウェットな世界というものはうんざりになる。知らず知らずにそういう人間関係を求めてしまう弱さがある。でも、ウェットな世界なんてものは、幼いころの思い出だけで十分な気もするのだ。

 

 

まとめ:イランでマリファナは吸わないようにしましょう。

 

 

 

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moto