昼下がりモンキー

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カンボジアシガレット小話

 外国に行くときはタバコをもっていくと便利だ。
 それが簡単なお金の代わりになる。お礼に使えるし、お近づきの印に使える。しかし通貨とは似て非なるもの。もっと純粋に「好意」をそのまま形にしたようなものに近いのかもしれない。そしてお金よりもずっとずっと気楽なものだ。
 あまりに気楽なものだろうか、どこを旅行してもよくシガレットを持っていないか尋ねられる。「尋ねられた」という言い方をしたが、これは幾分ていねいな言い方になっている。少し辟易した気持ちを乗せれば「せびられた」と言えるし、悪意を乗せれば「乞食」と言える。にしてもヨーロッパは少し不思議で、多少しっかりした身なりの人からもよく「尋ねられた」。決して金に不自由しているようには思えないような人達が、だ。
「どこから来た?」「何を勉強しているんだ?」「タバコを持っていないか?」彼らは悠々と文脈を飛び越えてくる。
更には直截的に、2ユーロぐらいの小銭を「尋ねられた」こともある。もしかしたら、それは文化なのかもしれない。ある特定の地域のあるコミュニティによる文化。洗面台に腕時計が落ちていたら拾ってしまうことや、お釣りを1ユーロ少なくすることと同じようなものかもしれない。でも、彼らは広範に出没した。ドイツ、オーストリア、デンマークチェコ、フランス、イタリア。彼らは、実に色んな所に出没する。特に駅の周辺で。でも、悪気はない。
 これはコミュニケーションの一環なのかもしれない。隣の席の女の子と話したいとき、教科書を見せてもらってキッカケを作るようなものかもしれない。そう考えると、よい身なりの人々のやわらかな孤独が感じられる気がした。それを指摘したら壊れてしまうような脆いもの。
 ぼくは知らず知らずのうちに、彼らと孤独を共有すべく(?)、タバコを吸うようになっていた。気づけば吸っていた。旅のどの時点でぼくのニコチン摂取が始まったのか、そんなことはわからない。ただ、動機は明確だ。ツールのために始まった。
 どこでも吸った。
 それは、ヨーロッパ人がどこでも吸うからだった。
 2007年.あの頃は、分煙活動が広まりつつあったけれども、まだ市民権は得ていない。そんな時期だった。何にだってそういう時期はある。ヨーロッパでもイタリアに行って初めてレストランの外で吸っている人を見た。彼らを見ると彼らの背負う孤独がより一層際立ったが、日本の喫煙室ほどではない。それぐらいの孤独だ。
 いろいろなところで吸った。王宮の庭で吸って、駅のプラットフォームで吸って、世界遺産で吸った。フィレンツェのドゥオモの頂上で吸ってポイ捨てしたときは、怒られたので拾った。日本人の観光客だった。大学生の3人組だっただろうか、世界遺産でこんなことをするなんて信じられないという顔で見ていた。自分は酷く文化に染まりやすいことに気づいた。
 ヨーロッパから離れても、旅するときは、日本のタバコを持って行った。アジア圏はもっともっと直截的にタバコを求めてきた。つまり順番が違うのだ。①金をくれ、②タバコをくれ、③こんにちは、という順番で会話が進む。①②③の変動はあるが、そこに大きな差はない。向こうから話しかけてくるときは大抵そんなものだった。子供にはお菓子やピスタチオなどの豆類をあげた。
 誤解のないように言っておきたいが、これらは「向こうから話しかけてきた時」のことだ。「こちらから声をかけた時」はもっと丁寧で、思いやりに満ち溢れた対応が多い。何かをくれるときだってある。タバコくれなんて、絶対に。いや、あまり言ってこない。そのうち、声かけてくる人々をあしらう意味でも、なかなかよいツールであることにも気づくようになった。
 カンボジアアンコールワットの古代遺跡の眺めの良い一室に、勝手に巣食っているおじいさんがいた。彼とはタバコの交換をした。
 巣食っているといっても、定住しているわけではないようだ。一室には生活感が無かった。ただ、荷物が多少詰められていた。ごくわずかな食べ物、水、タバコ。暇だから昼間は観光にやってくる人々と話して、時には勝手にガイドして金をせびって生きている人のようだった。
 自分から観光客に話しかけに行くことはあっても、話しかけられて一室まで付いてくる人間はあまり知らないらしく、嬉しそうだった。交換したカンボジアのタバコの味は忘れた。そもそもカンボジアにタバコ会社があるのかも知らない。
 彼はその広い遺産でも夕陽の眺めのよい場所に連れて行ってくれた。特に話すこともなく夕陽を見ていた。そもそも言葉が通じないのだ。何も話さなかっただろう。われわれは、熱帯のジャングルの中、熱された石の上で、遅れてやってきた夕暮れを眺めていたのだ。うだるような熱風が、湿度を孕んだ心地よい風に変わっていった。ここで長い日中を過ごした誰もが、疲れていた。
 下で安っぽい民芸品を売る子供だけが、石の上にいる自分を見つけて騒いでいた。その籠には何が入っていたか。ミサンガだったか、竹で作られた腕輪か、竹を切っただけの笛か。彼だけが、おそらく柔らかい連帯の中にいなかった。彼だけが、つかれていなかった。
 その他はみな、均等に疲れていた。土も、ジャングルも、この寺院さえも、ちょっとでも気を抜いたりしたら瓦解してしまいそうなほどに、疲れきっていた。
 こういった柔らかな繋がりが、言葉を介さなくてもできるものがタバコだ。その連帯はアルコールより弱く、言葉よりも強い。きっとそこで交換するものは純粋な「好意」だからだ。多少命を縮めようとも、好意がなければ生きている意味なんて無い。
 でも、日本では吸わない。いろいろな理由はある。ただ好意すらめんどくさい社会だってあるのだ。