昼下がりモンキー

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スリランカ旅行記2  聖地カタラガマ

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旅に目的地は必要なのだろうか。

難しい問題だ。この問いに対するぼくの答えは、半分イエスで半分ノーだ。

なぜなら、目的がないと旅のモチベーションが上がらず、そもそも旅が始まらない。しかし、目的地は大概の場合、期待はずれで終わるからだ。他の人はどうなんだろう。もしかしたら、ぼくの調査不足のせいというだけなのかもしれない。

 


予定は二つあった。

ジャングルで野生動物を見ること、もう一つは聖地カタラガマのお祭りを見ることだった。その二つはスリランカで外せないものとなっていた。

しかしながら、結果から言って、その二つはどちらも、それほど面白いものではなかった。

ジャングルは乾燥していて、動物が水飲みに現れることはなかった。サファリに誘ってきたガイドは「今日の夜は雨が降るだろう。明日の朝はレオパルドが出るはずだ」と言って俺を雇えと自信たっぷりに話しかけてきた。実際のところは、雨雲が降る気配も、雨がふることもなく、乾燥したままの朝を迎えることになった。ガイドのおじさんは、きっと毎日同じことを言っているのだろう。

聖地カタラガマはスリランカにおけるヒンズー教随一の聖地だ。人で溢れて熱気を感じたが、そこはなぜか企業に管理された野外フェスに近いものを感じた。土俗的なものの狂気から離れてしまっているように思えた。とはいっても、普通に見れば、かなり異様だった。人は泥だらけの川で沐浴をし、泳ぎ回り、家族づれはキャンプを始め、おばあさんたちは焚き火の上でチャイを作っていた。妙な格好をした人々は太鼓を持ち出し突発的に練り歩き、象は首元を鎖で縛られたまま槍を向けられて佇んでいた。まあ、異様だった。

でも、なぜか、予想外なことは起こらなそうだと思った。象が象使いを踏みつけでもしない限り、だ。

ただ、その予定調和を否定する言葉をぼくが言ってはいけない。もちろん、このお祭りは同じ文化のものたちに向けた内向きのものなのだ。ヒンズー教徒の、ヒンズー教徒によるヒンズー教徒のためのおまつり。対象にぼくは入っていない。この祭りに付随する意味も、神聖さも、ぼくは知らない。

 でも唯一、楽しかったこともある。トゥクトゥクで向かう時だった。前のトラックの荷台に6人ぐらいの女性が乗っていて、ぼくと同様カタラガマに向かう人々だった。彼女たちは走る車の荷台から、いかにもインド的な陽気な歌を歌っていた。ぼくとトゥクトゥク乗りのお兄さんは、そのトラックの後ろや横を走りながら、彼女たちと一緒に手拍子をとって歌った。ぼくはその知らない歌を適当に合わせて歌った。ジプシーのキャラバンみたいだなとか思いながら、そのときだけは部外者でなくなれた気がして楽しかった。

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スリランカについて2日、その二つが心の中で空振りをし、早くも旅行の目的がなくなった。5日間が余った。

やることをなくしたぼくは、そのまま北に向かった。山の方に向かった。空白を埋めに行くのだ。

どこだっただろうか、もう忘れてしまった停車場だ。その山の麓の停車場で何時間かバスを待った。トゥクトゥク乗りが「乗れ、どこでも連れて行ってやる」と誘ってくる。もちろんバスの方が安いので、断る。が、暇なのでコーラをおごる。お礼にタバコをくれた。中にマリファナが入っていて断る。バカじゃないのか? そういって笑う。人が集まる。どこから来たんだ? どこに行くんだ? 俺のトゥクトゥク運転していいぞ、彼女はいるのか?  おまえはいいやつだ、おれんちにこい、とか。

東南アジアには、客がつかまらず暇を持て余したトゥクトゥク乗りがすぐに集まってくる。彼らも空白を抱えているのだ。

どこにいても、わらわらと集まってくる。お互いに大したことない英語で暇をつぶす。そんな英語を話したところでどんな語学的成長も見込めない、そんな英語で意思疎通をする。正確にお互いの言っていることを理解しあう気はない。お互いに。

そんなスカスカした意思疎通をしているところで、やっと心の中にストンと何かが落ちた。こういうときが一番楽しい。サファリよりも、祭りよりも、楽しい。観光地よりも、建築物よりも、歴史よりも、写真よりも。

追い抜いたトラックだったり、バスの中だったり、停留所だったり、こういう空白の中が一番楽しい。移動することこそが、楽しい。

他愛のない関係を作って、そしてすぐに断ち切って、山に向かう。次の街はella というところだ。