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レビュー『深夜特急 4 シルクロード』 現実を追いつかせるな

 

 来週イランに行ってきます。その前に、深夜特急を読んで復習と予習をしておこうと思い、本棚から取り出す。読んだのは随分前なので記憶は曖昧だったが、やっぱり沢木耕太郎はイランに寄ってた。よかった。

 

深夜特急〈4〉シルクロード (新潮文庫)

深夜特急〈4〉シルクロード (新潮文庫)

 

 

 再読した印象からだとイラン革命前だろうか。あくまでイメージでしかないが、革命後の締め付けの厳しさが無い気がする。革命前を見たかったなあ、と思う。いや、一番うらやましいのはアフガニスタンに入国できたことだ。今となっては少なくともこれから30年は入れないと思う。シルクロードの中核の一つであるアフガニスタンは見てみたかった。荒野とラクダと遺跡、タリバンに破壊された仏教遺跡。バンコクで出会った日本人がいる。旅に生きて、旅のまま死んでいくタイプの人だ。彼は3ヶ月働いて、金を貯めて好きなだけ放浪して、また少し稼ぐことで生きていた。何も生み出さないし、何も残さない人である。彼は世界中で最も美しい場所はアフガニスタンの夜の荒野であり、その静けさだと語った。シルクロードの幻はいまだに各地に残っていて、訪れた旅人を魅了する魔力もまだ残っているようだ。

 さて、深夜特急の話に戻そう。

 再読して感じたところ、この人は旅をしているのでなく、普通の「生活」をしているのだなと思った。これがおそらく、ふつうの旅人とは違うところで、深夜特急が妙な引力をもって人を魅了し、また間口が広く読み継がれる原因なのだろう。旅というものが、異様に身近でいて異常に視点が近い。

 

「移動するスピードに現実を追いつかせるな」 という旅人のモットー

『使い道のない風景』(村上春樹著)に上記の言葉がある。これが旅行者のモットーであるそうだ。現実を忘れるために、異世界に行く。現実的な重さをまとわず、どこまでも逃げ続ける生活。どこまでも残念でどこまでも理想的。 

使いみちのない風景 (中公文庫)

使いみちのない風景 (中公文庫)

 

 『男はつらいよ』はその精神を純粋に煮詰めた形であると思う。だから、寅次郎はどこまでいっても現実味のない夢の中の存在だ。どうしても、最後48作目で沖縄に行って終わるのが幻想を生きた人の象徴としか思えない。渥美清が死ななければ50作まで作られたというが、でも地上の楽園である沖縄で最後の作品が終わるというのが、やっぱり夢の中のようで偶然には思えなかったりもする。

 寅次郎が生きるべき現実(カタギ)の柴又に帰ってきて、毎回そこで生きてみようと思うけれど、地道な暮らしという閉塞感や、失恋という情けなさなど、現実世界が作り出す重力に嫌気がさして旅に出てしまう。その移動による距離的感覚とスピードが、「現実」を振りきってくれるのだ。これは、嫌なことがあってどこかへ逃げ出した人にはわかる。身体的にわかるのだ。「今、現実を振りきっている」ということが。まあ、どこまでも唯の錯覚なんですが、身体的感覚に同一化してしまえばごまかせる。寅次郎とかは太古の感覚を持っている人間なので、「寂しさは風が吹き飛ばしてくれらあ」とか「旅に出れば三日もあれば嫌なことは忘れちまう」とか言う。実際、どんだけ悲しいことも、本当に三日で忘れているようなので、本当に凄い。成長はないが、いくらでも再生していくしぶとさ。一長一短であるけれど誰もが憧れる自由さなのだ。

 「現実を背負ったままの移動」 という沢木耕太郎

 『深夜特急』における沢木耕太郎は、このモットーにまったく当てはまらない。何物からも逃避せず、ただ見るために旅をする。なんのために?「生活」を見るためらしい。最初のうちは観光すら忘れていたようで、その自然体が恐ろしい。

 多少ロマンチストであるが、過去の遺跡や建築物などを見て知識を積み重ねたり、幻想を抱きたいのではない。どこまでも、「生活」を見ているのである。だから、メインは市場・バザールに行くことと絶え間ない移動とそこでの関係性。外国の人々を通して、自分の生き方を考える、日本社会を考える、今後の生活を考える。かなりの異文化の中でも、ただただ自分と日本社会を写す鏡として存在する。

 こういう傾向は、旅人とは逆のところにある。

 ディープな旅人の寅さんは、現実を置いてきぼりにして理想と幻想の中でありたい自分を演じ続けてきた。「生活」がない。まさに夢の中の人。

 一般市民は、現実の隙間を縫った旅。現実世界の「生活」を持っていて、その合間にちょっとした息抜きとして旅をする。現実から逃れないし、逃れる気もない。自分もこの部類。

 沢木耕太郎は、どちらとも違う。旅の中で「生活」をし続ける。旅が終わった後の現実世界との接合を考え続ける。

 しかし、文庫版4巻で、「旅を終えた後、旅人は普通の生活に戻れるのか」という不安を抱く。ディープな世界へ続く断崖絶壁の近くを見てしまったのだろう。ここまで旅をしている人は、だいたいその絶壁を落ちている過程にあると思うのだが、沢木耕太郎は自然な生活の重力によって、こちら側に留められている。心のなかで「生活」が基盤として根付いているのだ。

 私も、その断崖絶壁のほんのさわり、入り口だけ見たことがある。40日東南アジアをふらふらしていて、現実がどこまでも遠いのが嬉しかった。東南アジア特有のいつまでも終わらないでグズグズしている夕日を見ながら、毎日、戻らないで生きていく算段ばかり考えていた。現実世界の重力を振りきったところにいることは、どんなに寂しくてもある種の幸福感があることは間違いない。

 沢木耕太郎が味わった旅の魔力はこんなものではないはずだ。「ここまでいったらもう戻ってこれないかもしれない恐怖」というのはまた魅力的。酒、薬、女、などなど、それらと同じく弱い人の依存の対象として旅はあるのかもしれない。

 沢木耕太郎的な旅の仕方は、どちらかというと、「吟遊詩人」とか「旅芸人」とかのジャンルに近いのではないかと思う。前近代の定住せず「旅」と「生活」のバランスをとって、二極のバランスをとって生きてきた人。違いはその場で稼ぐことはせず、そこで何かしら真摯に吸収したことを、これから文筆業で生きていくための糧にしようとしたところだと思う。絶妙なバランス感覚が、「生活」を基盤とする視点こそが一般市民の視点に非常に近く、現実世界でくすぶっている心を熱くする。

 正直、寅次郎はどれほどかっこよくても考えてることがわからないし、同じような生き方は真似できない。でも沢木耕太郎の思考回路は自然にわかるし、自分にもできそうな気がする。そういうことかもしれない。

 

 現代ではどうか。「生活」をしながら人の「生活」を見に行く、というスタイルの旅行記の後継として、『インパラの朝』があるかもしれない。旅をすることと世界へコミットメントすること。深夜特急のデタッチメント傾向から次の指標に変わりつつある気がします。正直、深夜特急より好き。

 

インパラの朝―ユーラシア・アフリカ大陸684日 (集英社文庫)
 

 

moto