昼下がりモンキー

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『プール』 理解することをあきらめる幸せ

かもめ食堂』はマジックリアリズムでした。映画で丁寧に積み上げていく現実世界。少しおかしい人たちとの日常が、最後の魔法によって、日常のすべては奇跡の産物だと気づかせる構造をもっていたように思えます。それは、フィンランドという土地の魅せる魔法なのでしょうか。妖精や神話の息づく北欧の魔法なのでしょうか。フィンランドの土地柄と、役者と、魅せる個性と、この世界における価値観とのズレ、それが最後の奇跡のスパイスによって合致するように作られた作品です。それによって、我々がまだ気づいていない、そして進んだ先にあるかもしれない「幸せ」の形を提示してくれました。

 

かもめ食堂

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  • 発売日: 2016/06/29
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進む先、と言いましたが、もしかしたらそれは大昔の我々の感じていた種類の幸せなのかもしれません。いずれにせよ、現在では欠落してしまった何かです。

 現代の我々では理解できません。監督もなんとなくで作っていそうなこの作品ですが、単純な「スローライフ」とかがテーマではないと思われます。その先を、監督でも見たくて描いているのではないでしょうか。見ている側は、それはもう、未知のものを見せられてとまどいますが、だんだん脳内の時間がゆっくりになっていきます。慣れるまでは時間がかかります。

我々の時代の進んだ先や、もしくは大昔にこのような生活をしていた人が「かもめ食堂」を見たら、当たり前すぎて何も感じないのかもしれません。それはなんと豊かなことでしょう。私たちが失ってしまった「豊かさ」です。それを具体的に言う言葉がないのは、ぼくの語彙力がないのと同時に、現在の文明ではまだ開発されていないからです。それを言うなら、「スローライフ」「ロハス」あたりが近いのかもしれません。でも、そこには明らかに「イケてる感」が出てしまう。その感覚はノイズであり、いらないのです。「原始性」に近いのかもしれませんが、それは曖昧過ぎる。言語の外の概念を出してくることは、映画として本当に素晴らしいことだと思います。

かもめ食堂』は、忙しい時は見れません。心に余裕のないときも見れません。つまり、現代人ではある一定数の人が見ることができません。とても制限の多い映画です。無理に見せたら苦痛を伴ってしまいます。心に余裕がないのに、見て癒された気持ちになる人は、きっと、それを感受するだけの余裕がある、と言えると思います。ここで言っているのは、「本当の」余裕がない人たちです。何かに苦しめられている、何かに追われている、そしてゆったりとした平和な時間を過ごした経験のない人たち。かつてあった豊かな思い出をもつ人は見ることができます。さらに、その「思い出」に価値を見出せる人はこの映画を好きになります。

 神話学者のジョーゼフキャンベルはこんなことを語りました。原文は忘れましたが、以下のようなことです。

「幼いころ、未知の冒険をする私たちは英雄だった。そのときの、満たされた思い出があるから、大人になってつらい世界を生きられるのだ。」

 幼いころに積んだ心のエネルギーを、少しずつ燃やして浪費しながら、我々は大人を生きているのかもしれません。そのころの感覚にアクセスする映画が「かもめ食堂」などの作品なのかもしれません。

 

 さて、本題です。『プール』を観ました。場所はタイランド。タイもゆっくりしているから、作風に合いますね。『かもめ食堂』とまったく同じレベルのゆったりさと雰囲気をもっているにも関わらず、とても現実的な話に落とし込まれていました。最後にファンタジー要素で落とすかと思いきや、落ち切らず、現在のつながりをもったまま終わりました。これは何なのでしょう。

 

プール [DVD]

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テーマはそれぞれ「親子のつながり」「個人」「幸せ」「愛」など。やはり、このなかでも「親子のつながり」でしょうか。ここがテーマとしてある限り、地に足がついてしまうのかもしれません。この、どちらかといえば、これは逃げられない絡めとる種類のテーマだからかもしれません。

そのせいで、『プール』において、小林聡美さんは自由である反面、身勝手である印象を受けてしまう。『かもめ食堂』では子供がいる設定が出てきてないので、身勝手さは感じられず、ノーストレスで見られました。『プール』では、親が子供を祖母に預けて、タイで好きに暮らす主人公の姿。これは日本的な価値観からすると、まだ、慣れないところがあるからかもしれません。そこにゲンナリしてしまう視聴者もいるでしょう。一緒にいたかった旨を娘に告げられた母:小林聡美の答えは、「私は楽しくやっている。あなたは大丈夫。」というもの。親子はまったくかみ合いません。どちらかといえば、観客としては、娘の気持ちに乗ってしまうところ。このかみ合わなさを、クライマックスにもってくるのはなんなのでしょう。

 このかみ合わなさは、既視感がありました。身近にいませんか。まったく噛み合わない人。こちらが、必死になればなるほど、まったくその気持ちを理解してくれない人。その人に悪意はありません。ただ単に、かみ合わないのです。価値観があまりに違いすぎて。

 この作品では、それが母という絶望。決して悪い人ではなく、むしろ良い人。知らない孤児をそのまま育ててしまうような人。でも、その時好きなことをするのに全力で、決して自分のことを一番に見てくれない。

 小林聡美は主義を主張したりしません。ダイアローグもテーゼもなく、ディベートは生じません。娘の独白に対して、「私はこういう生き方をする」というだけ。議論のないところに、変化はありません。コミュニケートできないということであるから。

 おそらく、娘は理解しあえないということを理解したのでしょう。寂しかった記憶や、自分よりほかの子を育てていたことに対する、親子なら抱えるであろう普遍的な嫉妬に対して、感情をぶつけても、その人は私の苦しみは理解できないということ。しかし良い人であるから憎むこともできない。よって、彼女は諦めたのでしょう。

ですが、逆説的にそこで救われたようにも見えました。

理解してもらうことを「諦める」ことで、幸せになるのです。我執とでもいいましょうか。欲望が消えることによって、自分勝手に見える母と和解ができたのです。悪く言えば、娘が折れたのです。

 まさか、「わかりあえないことをあきらめる幸せ」なんてものを映画で見せられるとは。

まさにプールでしょう。

小林聡美さんの行動原理はシンプル。透き通っていて、綺麗で、広い。そして、冷たいんです。プールは寄ってきたひとを平等に受け止め、独自の浮遊感と幸せを与えてくれます。ですが、ずっとその中ににいることはできません。ずっと幸せにはしてくれません。そして、それはゲストハウスでもあるのかもしれません。

また、象徴している歌にもありました。

 

『君の好きな花』

 

薄紅の

つんでみようか

やめようか

 

風に吹かれて

飛んできた

遠い町まで

飛んできた

 

君の好きな歌

歌おうか

まあるい笑顔が

見たいから

ぼくの好きな歌

君の歌

遠い町まで

届くかな

 

(略)

愛しているよ

愛しているよ

愛しているよ

愛しているよ

 

 

 タイのゲストハウスにいる面々は、本来の居場所から離れてきています。

皆、タイにとっては外国人で、ビーくんにいたっては母に捨てられた(?)。元の居場所から皆、タイのチェンマイに「飛んできた」のです。そして、遠くで歌うのです。届くかな、と思いながら。愛しているんです。母なりに。

 わかりあえない母であっても、愛していることは伝わったのではないでしょうか。そして、言葉で割り切れるものではないことがあります。ラストの、もたいまさこさんの魂もそうでしょう。大事なのは距離ではないのです。なぜなら、魂は届くのです。これは、愛についての物語なのです。分かり合えないけれど、実在を感じることができる。ですが、愛なんて形のないものではないでしょうか。それを、歌にのせて伝えられるだけでも、それはなかなか幸せなことなんではないでしょうか。そのように、子供が大人になるという現実を描いたものが『プール』かと思われます。賛否両論ありそう。

ただ、現在の価値観や、考え方では到達できないところにあるのかもしれません。先の次元のものか、大昔の次元のものであるようです。

 

 

 

 次は『めがね』だ。

 

 

めがね

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