昼下がりモンキー

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スパイダーマン ファーフロムホームの構造 肉体への回帰 ネタバレ

スパイダーマンは親愛なる隣人である。

ニューヨークのヒーローであり、手の届くところにいる感じが何よりの魅力だ。それはいわば、初代ポケモンのような身近さだ。いるんじゃないか、と思わせるぐらいの親近感と、憧れ。

さて、今回のテーマはフェイクだ。

科学というものは基本的にまやかしである。技術を高めていっても人間性が向上するわけではない。むしろ弱くなる。アイアンマンで描かれてきたように、外見の強さは内面を弱くする。中身が強くなるためには、経験なのだ。様々な試練で、折れないという経験だけが人の中身を育てる。

そういう意味で、科学とは技術が確立されればお手軽に手に入る力であり、本質を伴わない見せかけなのだ。

スパイダーマンは敵が科学者だ。弱い心を持った科学者、もしくはエンジニアが科学を悪用する。それはピーターパーカーの反面である。科学者であるピーターパーカーのあったかもしれない未来である。ミステリオもそうなのだ。本質的な強さをもたずに、弱い心のまま欲望にのまれた敵なのだ。

ゆえに、敵は小物となる。一作目のヴァルチャーも、二作目のミステリオも本当に小物だが、わざとだろう。見事だ。

そこには、サノスのような力強い信念はない。目の前にある富、名声などを求めているだけだ。サノスには経験に裏打ちされた心の強さがあるが、スパイダーマンの敵にはそれがない。なぜかといえば、見せかけだけで中身が強くなっていないからだ。考えてみれば、敵は、心の成長しなかったアイアンマンことトニースタークとも言える。トニーも、元は小物だった、第一作で心を取り戻すまでは。

だが、小物ゆえに強力だ。自分が非力であることを知っているので、きめ細やかな戦略でくる。毎回チームを組んで戦う。とても前向きに、一丸となって戦う。とても楽しそうだ。クライム映画にあるような高揚感は、アントマンのチームに近い。

フェイクだ。

フェイクにフェイクを重ねる。観客も何が何だかわからなくなる。幻覚の表現なんて圧巻だ。観客がスパイダーマンと同化し、ダメージを受けてしまうほどの映像世界。その中で、信じていたものが薄っぺらくなる。現実に立脚している我々の足場さえも、結局のところただの認識の問題であり、不安定な足場だと知る。幻影の中で何も見えなくなる。自分しか見えなくなる。そんなとき、人は何を信じて暗闇から抜け出すのか。

その先に見えてくる、監督の考えるフェイクに打ち勝つ強さとは何か。

それは別に愛とかではない。確立した自己でもない。感覚だ。日本語ではムズムズと言われていたが、スパイダーセンス、つまり第六感だ。感覚とは今までの経験から生み出されるものだ。そして修行して育てるものだ。

これは肉体を信じろということだ。何かしら、嫌な予感は体で感じることができるのだ。スパイダーマンに限らず、人間だってある。この道をいったらなんかまずそう、というのはある。それは建物の雰囲気や、街灯の明るさ、人の表情など。それらは言語化したら気にしすぎと呼ばれるレベルのものであっても、体は微細に感じ取れる。

情報にも、我々の身体性を高めて向かい合えばいいのだろう。つまり、自分の感覚を総動員させて真実を見つけなさい、ということだ。

このフェイクに満ち溢れた世界で信じることができるのは、友情でも愛でも、信念でもない。それらは、陶酔させて本来の感覚を見失わせるものだからだ。もっとシンプルに、自然体で、感覚を信じてこの世界と戦えというメッセージなのかもしれない。

だから、劇中のセリフにあった通り、本質的にスパイダーマンはアイアンマンではない。科学をさらなる科学でぶっ潰すアイアンマンではない。科学をベースに、最終的には肉体に野生に回帰するハイブリッドがスパイダーマンなのだ。

最新鋭のドローンを肉体でぶっ壊していくというばかな感じもとてもよい。特に仲間やmjまで、ドローンを鈍器でぶっこわす。しかも中世の武器でだ。

とてもわかりやすくデジタルからの肉体回帰が描かれている。実際に動いてみろ、と。ネッドがゲームをやめて隣を見て恋をするようにだ。デジタルからの離脱。科学に頼りすぎるなよ、肉体を信じろというメッセージが何度も描かれている。普遍的かつ、古典的な映画となっている。スタークから受け継いだネットワークシステムなんて使えなくていいのだ。トニーから受け継いだメタルのスーツもいらない。あまりに、アイアンマン的だったギラギラしたスーツは終わり、自分らしく作り直したスーツはラバー生地のスパイダーマンそのもの。その柔らかさこそがスパイダーマン本来のものだ。それを取り戻せた。そして、一作目と違い、スーツの機能もシンプルに、ガイダンスはなくなり、自分の肉体を強化するものに変わる。

 

スパイダーマンとは、アイアンマンにキャップをプラスしていると考えても良いだろう。アイアンスーツに、超人の肉体だ。

構造で見ると、アベンジャーズの後継にまさに適している。

このままいくと、次作も小物であるだろう。そして、ピーターパーカーのみがもつムズムズとした感覚を、一般人も持つことで幻想を打ち破って終わるのではないだろうか?

なんて想像もしてみる。

フェイクに打ち勝つには、経験だ。経験のない人間は未成熟といえる。初期のピーターパーカーでは、超人的センスを持ってしても勝てなかっただろう。経験を積み、心を鍛え、悪を知り、大人になったからこそフェイクを越えることができた。

今度は、スパイダーマンだけではなく、ny市民まで巻き込んだ成長の物語になったら。我々まで心を鍛える映画になれば、一つのアンサーになりうるのではないか。

三作目が楽しみだ。