昼下がりモンキー

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イラン旅行記 4 - 軽やかな物乞い

 

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イランの若者の話を聞く。
 「ホメイニもロウハニも政治もよくない。たとえば、見てみろ、ホメイニーの聖廟はずっと作成中だ。右端の塔を作るのに13年経っても終わっていない。どんだけ税金使うんだ。それにアルコール禁止だし、ドラッグは出回ってる。学校での英語教育は禁止されている。禁止ばかりだ。」

 しかし、テヘランはよいところだと彼は言った。どこがよいのか聞くのを忘れてしまった。この排気ガスでカオスな首都の良い部分は僕にはあまり見つけられなかった。
 バザールを歩く。この国で初めて、子供の物乞いを見つける。手が汚れていて、服は洗っていない。気を引くための、ささやかに民族衣装に見えなくもない半端な服をだった。お菓子をあげてカメラを向けると笑って逃げる。「撮らせてあげないもんね」といった表情。
 東南アジアで無表情にバスに貼り付いて金をねだる子供達に比べれば、楽しそうだった。遊びながら金をもってそうな大人に向かって交渉する。ダメならダメで、また何人かで集まって笑って、軽やかに人混みを抜けていく。物乞いにも何かしらやりがいや達成感、もしくは純粋な遊びの一種のような楽しみが得られるのかもしれない。職業に貴賎なし、というが、これを職業と言っていいのだろうか。ただ、それでも楽しそうなのは救いだ。
 また来た。今度は日本円を取り出して、一円や十円をあげる。バザールで葡萄を買って食いながら、彼らにあげようと思い夕方広場に引き返したところ、彼らは既に帰ったようで。残念だったが、夜には帰る場所があるらしい。夜は働かないでいいなら、それはいいことだ。
 アジアを旅行すると誰もが思うことについて考える。

 きりがないことをどうするか?

 中途半端な自分は、物乞いにお金は渡せないが、何かしらの意味があるかもしれない贈り物や、食べ物を渡す。
 子供の商売、と考えるとカンボジアアンコールワットミャンマーのバガンでは、二束三文の絵葉書や民芸品を売っていたが、楽しそうだった。彼らは無害な観光客と交渉し、遊び、英語を学び成長する。

 なんだかこう思える。テヘランの軽やかな物乞いも、ミャンマーの観光地で絵葉書を売っている子供たちも、その表情と遊びの楽しみ方は同じようなものだ。そして、情に訴えてほんのわずかな金銭を得るところにその本質性を同じくする。

 今は物乞いも絵葉書売も、その行為の意味をわからず遊んでいる。しかし、もう少し大きくなった時に大きな差を感じることになるだろう。本質的に大差ないことでも、片方は大きなアイデンティティの危機をもたらすかもしれない。成長に暗い影を残すかもしれない。だから何かしら売るものを持ってたらな、と思う。テヘランの物乞いも絵葉書とか売ればいいと思うんだが、無責任な旅人の戯言である。

 

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moto